Masaki Koike's blog

編集などを生業としています。モヤモヤの吐き出し、触れたものやつくったものの所感の備忘録など。

なぜか「地元」っぽいものが得意じゃない

なんだか最近調子がよくなく、今日もそうなのだけれど、なぜか文章が書きたくなる。

 

なぜだかわからないけれど、先週書いたこの記事、特にTwitterなどでシェアしているわけでもないにもかかわらず結構読まれているみたい。ありがたい。

masakik512.hatenablog.com

 

上の記事にもちらりと三宅唱『ケイコ目を澄ませて』のことを書いたけれども、その流れでアマプラで三宅監督の出世作(?)と言われる『きみの鳥はうたえる』を観たらとてもよかった。安易さに回収せず、どっちつかずのリアリティを追求したプロットは原作の力に拠るところがどれくらいあるのかわからないのだけれど、それ以上にとにかく、映像と音、演技が素晴らしく、頭悪い言い方だけれど「これこそ映画……」としみじみと。現実ではあまりにも現実らしくて見落とされてしまう表情や音を、最大限に拾い上げ、画面の中に再構成する。視線ひとつからカラオケのBGMの低音まで、何から何まで凄まじい。ふだんは、こういう若者たちの閉塞感ある日常を描く系の作品は、文字通り閉塞感のある気持ちになってしまうのであまり得意じゃないのだけれど、そんなのを補って余りある圧倒的な映画体験だった。配信で観てコレだから、劇場で観たらもっと凄まじいのだろう。『ケイコ目を澄ませて』に乗じて三宅唱特集を組む単管も多そうだし、ぜひ足を運びたい……と思ったら、ご近所のジャック&ベティがちょうど先月にやってしまったようで残念。ひとまずこっちがまた近くでかかるのを待ちつつ、『ケイコ目を澄ませて』をもう一度観に行こうと思う。

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さて、とりあえずつけたタイトルから完全に逸れてしまった。

 

前回の記事つながりで、今まであまり言葉にしてこなかった感覚をなんとなく言語化しておこうかなと。

 

僕はなぜか、「地元」っぽいものに遭遇すると、生理的に「ウッ」となってしまう。具体的に自分の地元が苦手、というわけじゃない。どこの地域であっても、その地域に密着した店で、ローカルコミュニティっぽいコミュニケーションを目にすると、何か言いようもない距離感を覚えてしまう。ことわっておくけれど、別にそういう地元に密着して生きる人たちを嫌っているとか、見下しているとか、そういうことではないと思う。むしろ、地元に明確な帰るべきコミュニティを持っている人たちが羨ましく、憧れをもってきたように思える。でも、それがたとえ自分自身の地元や、いま住んでいる街で、なおかつ自分がそこに一歩近づけたような状況(たとえば、近所の行きつけの店だとか)であったとしても、そこに自分の身を投じようという気持ちにはならず、むしろ警戒心を抱いてしまう。

 

なぜなのかはよくわからない。もっと言うと、これは土地に紐付いたコミュニティだけじゃなくて、いわゆる学生時代のコミュニティのようなものにも言えるかもしれない。どんなに居心地が良く、属している人たち自体のことが好きなコミュニティであっても、「ここが帰るべき場所だよね」といった感覚を、手放しに抱くことができない。

 

これはとても不幸なことだとも思う。でも、30歳も目前にしているいま、もはや諦めの境地に達してきているような気もする。自分が心から帰属感覚を得られる地域、もっといえばコミュニティはないのかもしれない、という前提で生きていくしかないのだ、と。繰り返すが、これは別に、これまで自分が属してきたコミュニティすべてに不満を持っているとか、そういうわけじゃない。属せていてよかったなと心から思えるコミュニティはたくさんあるし、これから先の人生もずっと付き合っていきたいなと本心から思える人は全然いる。

 

でも、ここが「地元」と明言できるものがない。そして、他の人のそういう「地元」性のようなものに触れると、なんだか少し距離を取ってしまう。

 

ただ、書いていて思ったけれども、それも僕が勝手に「ここはこの人の唯一無二の『地元』なんだ」と思い込んで、決めつけているだけなのかもしれない。そもそも原理的に、ひとはひとの100%全てを知ることはできないのだから、自分の全てがある「地元」などという場所がありえないということは、論理的な帰結として当然出てくる。

 

ひとびとが「地元」性に遭遇した時、どんな感覚を抱くのか、むしろ聞いてみたいかもしれない。