Masaki Koike's blog

編集などを生業としています。モヤモヤの吐き出し、触れたものやつくったものの所感の備忘録など。

「ユーザー目線」「ストーリーテリング」の危うさ

昨今、主にビジネスメディアなどで、「ユーザー目線」「ストーリーテリング」の重要性が語られることが多い。自分もいち編集者・ライターとして、少なくない頻度で使っている言葉だ。もちろん、コンテンツをつくる際に、方法論として意識している概念でもある。

 

しかし、このコンセプトを無批判に使ってしまうのは、けっこう危険なのではないだろうか。

 

6/17に刊行された、石戸諭『ルポ 百田尚樹現象: 愛国ポピュリズムの現在地』をさっそく読んでみて、そんなことを考えた。

 

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まがりなりにもメディアの仕事で食べている人間として、ズシッと重い宿題を受け取ったような気持ちになった。モヤッとした気持ちを整理するためにも、文章として書き記しておく。

 

「相手の靴を履いてみる」ルポルタージュ

 

『日本国記』をはじめ、百田尚樹の一見「偏った」ように見える作品が、なぜ人気を集めているのか。百田尚樹本人、そのファン、見城徹をはじめとした仕掛け人たちに、できる限りフラットな目線で丁寧に取材し、その思考と感情を解き明かそうとまとめ上げている力作だ。

後半では、「百田尚樹現象の源流なのでは?」という仮説のもと、90年代からの「新しい歴史教科書をつくる会」の系譜を掘り下げ。こちらも藤岡信勝西尾幹二小林よしのりといった、錚々たる当事者への丁寧な取材をもとに書き記されている。

 

刊行にあわせて公開されていたニューズウィーク日本版のインタビューでも、本書に込めた想いが丁寧に語られていた。

 

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論破には可能性はないけれど、相手から何が見えているかを探ることには可能性がある。僕たちの業界でも「正しさ」で相手を論破しよう、社会を動かそうという傾向が強いように感じる。

だがそれは本来、運動家の仕事であって、ライターの仕事は安易に断罪せず、人、社会や時代を描くことだと僕は思う。日本に限っても、ノンフィクションの先人たちによる優れた仕事が残されている。僕はその伝統に連なりたいと思った。

少し言い換えれば、「自分で相手の靴を履いてみること」の可能性を提示したいと思って書いたので、ぜひ関心を持った人に読んでほしい。

著者の石戸氏は、インタビューでこう語っている。読了してみて、この言葉に嘘はないと感じた。リベラルやそれに類する考え方の人たち(自分も含め)からは、「偏った思想」と退けられがちな人たちが、どんな思考と感情に突き動かされているのか、丹念に解き明かされていた。

 

余談だが、このタイプのルポルタージュとしては、アメリカの保守思想を対象にした本で、いくつか良書がある。本書でも引用されているA.R.ホックシールド『壁の向こうの住人たち――アメリカの右派を覆う怒りと嘆き』をはじめ、渡辺靖リバタリアニズム アメリカを揺るがす自由至上主義 』『白人ナショナリズム-アメリカを揺るがす「文化的反動」』などは、まさに「自分で相手の靴を履いてみること」の大切さを痛感させられる。

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本書は、その現代日本版といった見方もできるだろう。

 

天才マーケター・ストーリーテラーの功罪

 

さて、本書のどこが重くのしかかったのか。

いくつか印象に残った一節を紹介する。

 

百田尚樹とは「ごく普通の感覚にアプローチする術を感覚的に知る人」であり、百田現象とは「ごく普通の人」の心情を熟知したベストセラー作家と、「反権威主義」的な右派言説が結び付き、「ごく普通の人」の間で人気を獲得したものだ。

(p111)

 

百田は読者が「元気になる物語」を生み出したいという。「論客ではなく小説家」こそが、自分のアイデンティティだと何度も強調していた。その言葉に嘘はない。

「小説家は読者に生きる勇気と希望を与えるものだと思います。みんな生活は大変で、辛いこともある。仕事だって娯楽じゃない。家に帰って、ご飯を食べ、お風呂に入る。余暇の時間はごくわずか。そこで、わざわざ給料からお金を出して、百田の本を読む。読み終えて『あぁ、おもろかった。明日も頑張ろう』という物語を書きたいです」

(p112)

 

 「新しい作家」にとって、思想信条とは簡単に着脱できるもので、読者の「感動」がより「上位」に置かれる。新しい作家は「感動させるための物語、そういう物語にふさわしいイデオロギー」を選んで書く。そして、それが「ごく普通の人たち」に届き、感動を共有する。批判はは隠された作家のイデオロギーが込められていると指摘するが、「物語」と「隠されたイデオロギー」は表面的には切れている。そこで批判は空転していく。

 批判と空転の繰り返しの先にある、百田尚樹現象の中心は「空虚」だ。本人をいくら批判したところで、そこには先がない。むしろ、彼を取り巻く現象にこそ注目しなければいけない。

 百田尚樹現象は新しいポピュリストが担い手となり、「現代」と共振した、全く新しい現象である。

(pp291-292)

 

百田尚樹は、偏ったイデオローグなどではない。「普通の人」の感覚に根ざした、天才的なマーケター・ストーリーテラーにすぎなかったのだ。徹底的な「ユーザー目線」に立った「ストーリーテリング」を、突き詰めているだけだった。

 

もちろん、たとえば国籍や思想信条が違うだけで、他の人を排斥しようとする排外的な言説は、決して許されるものではない。本書は百田の言説を支持する立場を取っているわけではないし、自分も同意見だ。

 

しかし、本書を読めばわかるように、「百田尚樹ってヤバイよね」「百田尚樹のファンって偏ってるよね」と断罪しても、状況は一向に変わらないだろう。先に引用したように、「百田尚樹現象の中心は『空虚』」だからだ。

 

むしろ問題は、この倫理なき天才マーケター・ストーリーテラーが、国民的作家になれてしまう社会構造の方にある。

 

冒頭でも触れたように、昨今のビジネスシーンでは「ユーザー目線」「ストーリーテリング」の重要性が、当たり前のように語られている。

たしかに、「ユーザー目線」に立ち、刺さる物語を「ストーリーテリング」することは、優れたサービスやプロダクトを広めていくうえでは必須に近い手段といえるだろう。

自分もいち消費者として、使いやすく、物語を乗った商品には愛着が湧く。この手法自体は、否定されるべきものではないと思う。

 

でも一方で、「ユーザー目線」や「ストーリーテリング」は、一歩間違えると「百田尚樹現象」を生みかねない側面もあるのではないだろうか。

徹底的に受け手目線に立って構築された、感動的なストーリーは、大きく人の心を動かすがゆえに危険なのだ。物語のつくり手や届け手は、このことを十分すぎるほどに自覚したうえで、「良いコンテンツ」を生み出していかなければいけない。

 

百田尚樹や、そのファンを「偏っている」と断罪するのはたやすい。しかし、真に検討されるべきは、物語が「感動的」でさえあれば、その倫理的な側面は省みずに爆発的に流通してしまうメディア環境、その環境を甘んじて受け入れ、順応してしまうパブリッシャーの職業倫理なのではないだろうか。

 

刃物は生活を豊かにしたが、同時に凶器にもなる。人類史上、何度も繰り返されてきた問題が、ここにも登場している。

 

「おもしろければ何でもOK」なのか

 

これは、ここ最近またメディアを賑わせている「文春砲」の問題にも通ずる話だと思う。

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「ゲス不倫」をはじめとしたスクープの裏側を自ら明かした週刊文春編集部『文春砲 スクープはいかにして生まれるのか?』では、その編集方針についてこう語られている。

……目指しているのは、裁きではなくエンターテインメントだからです。

 私たちが取材して記事をつくっている原点は、罪の追及ではなく人間への興味です。それこそが人間主義です。そのスタンスを忘れなければ、多くの人に記事を楽しんでもらえると思っています

(p45)

 

私自身も、好きなこと、やりたいことは昔から変わっていません。ひと言でいえば、おもしろい人やおもしろい話が好きで、おもしろいものをつくるのが大好きだということです。他の編集部にいたときもそうです。子供の頃や学生時代もそうでした。

 人が知らないおもしろい話を聞いてきて、みんなに伝えて、驚いたりおもしろがったりしてもらうことが根っから好きなのです。

 それが原点にあるので、「ジャーナリズムは斯くあるべし」と大上段に構えるのは苦手です。たかが週刊誌、されど週刊誌の精神なのです。

 正直にいうと、働いているという意識さえ薄いかもしれない。仕事というと義務感のようなニュアンスが出ますが、私が日々やっているのはもっとおもしろいことなのです

(p228)

 

人が善き生を全うしていくために、エンターテインメントは必要だと思う。往々にして「毒」のあるコンテンツのほうが面白いということも、また事実だろう。

 

しかし、それは排外主義やプライバシー侵害につながってまで提供されるべきものなのだろうか。「ユーザー目線」の「ストーリーテリング」は、「おもしろければ何でもOK」なのだろうか。(このあたりの論点については、また別の機会でじっくり検討してみたい)

 

そんな当たり前すぎる問題を、いま改めて考える必要があると、『ルポ 百田尚樹現象: 愛国ポピュリズムの現在地』を読んで痛感させられた。

編集者・ライターとして、日々さまざまな「ストーリーテリング」に携わっている自分にとって、まったく他人事ではない。

 

繰り返すが、自分は「ユーザー目線」「ストーリーテリング」そのものを批判しているわけではない。「おもしろい」「感動的な」コンテンツは人生への彩りや、生きる勇気を与えてくれるし、そうしたコンテンツをつくるためには「ユーザー目線」に立つことはマストだろう。

ただ、その危険さを十分に踏まえることも必要だよねと、言ってみれば当たり前のことを書き記しただけだ。

職業倫理、メディア業界の産業構造、受け手のリテラシーなど、考えなければ問題は山ほどあるが、こうした論点を心に留めながら、良い仕事を積み重ねていきたい。