東京に戻る新幹線、心地よい疲れともの寂しさの中で、Wifiが定期的に飛ぶストレスと闘いながら、でも手持ちの重めの本を開く気にもなかなかなれず、このエントリーを書いている。
前のエントリーにもすこし書いたように、月曜から今日まで3日間、秋田に行っていた。知人の実家がとある小さな街の、昔ながらの温泉旅館で、そこに泊まった。おそらくそんな縁がなければ一生足を踏み入れることがなかったであろう街に、滞在するということ。偶然性に身を任せるこういう旅、けっこう好き。
このもの寂しさが物語っているように、とても愉しい旅だった。といっても、日中はちょこちょこ仕事をしたり、テレカンに参加したりしていたので、ワーケーションに近い滞在ではあったのだけれど。
それでも日中はいくつか観光名所に連れて行ってもらったり、夜はシャッターの降りた店ばかりの中で、それでも開けてくれている店で遅くまで飲んだ。きりたんぽや稲庭うどん、いぶりがっこや日本酒など、秋田らしい食もたっぷり堪能できた。特に美味しかったのは、秋田県内でしか流通しないらしい、「ふくたち」という野菜。白菜に近い種らしい。最初に行った店の突き出しで、おひたしとして出てきて、あまりのおいしさにお代わりして、結局お店のホールを一人で切り盛りしているおばあちゃんが、半分あきれながらその日用意していたものをぜんぶ持ってきてくれた。生姜と醤油がいい具合に絡んだ、いわばジャンクなおひたしともいえるような予想外の美味しさに虜になってしまった。翌日、宿できりたんぽを食べたときも出てきて、帰る頃にはすっかり好物になっていた。
ふくたち - 雪国の知恵が生んだ 幻の冬野菜 | JAうご 秋田県羽後町
それから、この滞在中に個人的にいちばん印象に残ったのは、いわゆる地方の匿名性の低いコミュニティというものをじかに目の当たりにしたこと。よく、地方はムラ社会的で、それがある種のあたたかみももたらせば、一方で閉鎖性や生きづらさももたらすと言われる。抽象的な概念ではなく、否応ない具体的な人々を通して、その片鱗に触れられた気がした。たまたま入ったいかにもなスナックで、その秋田出身の知人と、ずっとそこで生まれ育ったママとの会話を聞いて、共通の知人レベルではない、濃密な人間関係、しかも数十年スパン、何世代にもわたる人間関係の存在に、ただただ驚いた。でも、もう一人同行していた別の地方の出身者に聞くと、たまたま入った店の人と共通の知り合いがたくさんいたみたいなことは、地方ではあるあるらしい。地元のコミュニティというものがほぼゼロになっている、川崎のベッドタウン育ちの自分からすれば、ありえない世界線だ。もちろん、それは確実に閉塞感にも結びついていて、実際にそれゆえの生々しい生きづらさについての話も聞いた。だから、それを「都会が失わせたあたたかい人間関係」などと手放しに肯定する気は、毛頭ない。でも、そこには確かに、街の歴史と共に、高い顕名性の中で、それを当たり前のものとして生きる人たちがたしかにいて、それをゲマインシャフトやムラといった抽象的な概念ではなく、たしかに生を営む人を通じて感じとったのは、なにか自分の人生を見つめ直させてくれ契機になった。個人情報ゆえにこれ以上の具体的な話を書けないのが少しもどかしいのだけれど。
そんなこんなで、明日からまた、そうした世界線とはまた別の世界線にある、自分のこれまでの人生を引き受けて、ここからまた一つずつ、生を重ねていこうと思う。