Masaki Koike's blog

編集などを生業としています。モヤモヤの吐き出し、触れたものやつくったものの所感の備忘録など。

ニュータウンと不可分な“東京の田舎”について。多摩ニュータウン散策の記録

先日、半日ほどかけて多摩ニュータウンを散策してきたので、備忘録として、フィールドノート的にその記録を。

 

多摩ニュータウンといえば、言うまでもなく、日本でも最大級のニュータウンの一つ。1960年代〜70年代頃に山々を切り拓いて造成し、最近50周年を迎え、ぽつぽつと現役世代の“Uターン”や”移住”事例も現れてきているという。

www.toshishuppan.co.jp

 

自分は多摩ニュータウンよりさらに10年近く新しい川崎北部のニュータウンの出身で、ニュータウンや郊外的なものには、実存的な問題として強い関心を抱いてきた。その環状については、以前noteにまとめたこともある。

note.com

 

僕の地元は多摩ニュータウンも地理的にかなり近く、小田急沿線ゆえにアクセスもよかったのだが、ほとんど行ったことがなかった。保育園や小学校のときは、動物園といえば「多摩動物公園」という多摩ニュータウン近郊の場所で、何回も何回も訪れていたし、多摩ニュータウンが誇るエンタメ施設であるサンリオピューロランドにも小さい頃に何度か訪れたものの、車やバスでテレポーテーション的に移動することがほとんどで、ひとまとまりの地域として多摩ニュータウンを訪れた記憶はほとんどなかった。

しかし、先に触れたようにここ最近新たな動きが生まれているという噂を聞いて気になっていたのと、そもそも多摩ニュータウンは郊外研究においては非常に多くの蓄積のある地域で、自分も色々と読んだりはしていたのだけれど、いつかしっかりこの目で見なければと思いつつその機会を作れていなかったのもあり、ついに実行した。ちなみに、多摩ニュータウン関連の書籍だと以下のあたりが気に入っている。

www.seikyusha.co.jp

www.nhk-book.co.jp

 

……というわけで、かねてより川崎や郊外についての私的勉強会をしている仲間と一緒に、その人が紹介してくれた、盆踊りや民謡などに造詣が深い一方でここ最近多摩ニュータウンに引っ越されたという物書きの先輩にアテンドしていただき、念願の多摩ニュータウン探訪に出かけてきた。

 

自宅のある横浜から、横浜線京王線を乗り継ぎ、約1時間ちょっと。前日に降っていた強めの雨もほぼほぼあがった土曜の朝10時半に多摩センター駅に集合すると、とにかく小田急も京王もハローキティ推しの空間デザイン。また熱烈なサンリオファンと覚しき人びともちらほら。

そんな中で、駅前のモールへ。とにかく巨大で、一部ハウステンボスさながらの雰囲気でいきなり異界感。大量のチェーン店の看板。奥に堂々と君臨しているのは、サンリオピューロランド

 

最初に向かったのは、多摩ニュータウン随一の文化施設パルテノン多摩」。Wikipediaによると、「東京都多摩市にある多摩市立の文化施設の愛称である。正式名称は多摩市立複合文化施設」「多摩ニュータウン・多摩センターのシンボル的な施設」「本格的な多目的ホール等があり著名な芸術家やミュージシャン、劇団などが招かれる。また、市民自身の発表の場としての利用も多い」とのこと。たしかに、駅からの大通りの最後部に鎮座するその雰囲気は壮観で、ラスボスが待っている神殿のような雰囲気。

 

中に入ってまず、常設展で多摩ニュータウンの来し方を学ぶ。何でも、もともとは明治天皇の御猟場になっていたのだとか。それ以前の時期の民具なども陳列されており、ニュータウン前史を体感。でもやはりとりわけ印象に残ったのは、開発前後の変化が視覚的にわかるジオラマ。40年経たずにここまで変わるのは、やはり凄まじいのだと、感覚的に伝わってくる。

 

そうしてイメージをインプットしたうえで、ランドマークたるベネッセ本社を横目に、緑化地帯を通り抜ける。神社と風俗店、そしてセレモニーホールが隣り合う地帯も目にし、生の本質を感じる(というより、ニュータウンに風俗店があることに驚き)。

 

そんなこんなで駅前のエリアを抜けると、いよいよ団地エリア。まず、居住エリアが小高い丘の上になっていて、けっこうきつめの階段を登らないとたどり着けないことに驚く。スロープは併設されていはいるものの、おそらく大きな割合を占めるであろう高齢者にとって、この勾配はなかなかきついのではないだろうか。とはいえ、その勾配の中──言ってしまえば“城壁“の中は、自分の地元付近や、親の地元である団地にも近い光景で、初めてきたはずなのに、懐かしさを感じる。これは「標準設計」によって規格化されている団地のなせる業だろう。

 

多摩ニュータウンにはとにかく橋が多い。エリアごとに橋が渡されていて、その下には川のように道路が通る。案内人の方は「島のようだ」とおっしゃっていたけれど、たしかに人工諸島といった趣。

 

団地内の小学校を通り、ここで生まれ育つ子たちに思いを馳せる。自分の地元ではすでに小学校の統廃合が進んでいるが、このあたりはどうなのだろうか。

 

そしてスーパーやちょっとした商店街のあるエリアに差し掛かると、たまたま近所の東京都立大学(たしか)とコラボしたイベントをやっているみたいで、若い人たちでごった返している。普段は人もまばらなエリアとのことだが、この盛り上がりには驚かされた。ハンドクラフト系の出店はもちろん、都市研究系の研究室とコラボして、ワークショップ的要素も兼ね備えた出店もちらほらと。大学とコラボした町おこしというのは、否応なしに外から若者たちがたくさん訪れる機会になるので、ベタだけれどやはり強いなと感じる。スタジオメガネというニュータウン内の建築事務所や、いけてる雰囲気の古着屋も活況だ。

 

途中、渋めのスーパーにも入ってみる。安いは安いが激安というレベルではなく、いま自分が住んでいる横浜と同等か、少し高いくらいの相場感。

 

そうしてしばしの喧騒を離れ、再びケの空間へ。

 

そして今回ぜひ目にしたかったエリアのひとつである、「タウンハウス」という戸建て風の集合住宅エリアに入ると、一気に雰囲気が変わる。祭りの喧騒とのギャップもあってか、異様に静かで、生活感がない。洗濯物がほとんど干されていないのもあるのかもしれない。ハイグレードエリアといった趣で洗練されているのだけれど、団地エリアとの違いで、一気に異界に紛れ込んでしまったかのようだ。千と千尋の神隠しを思い出す。


頑丈にプロテクトされたブランコから、ニュータウンの管理性を読み取ってしまうのは、あまりに恣意的すぎるだろうか。

 

タウンハウスを抜け、また団地エリアに入ると、少し安心する。それくらい、タウンハウスの雰囲気は自分には異様だった。今まで触れたことのないタイプの集合住宅だったからだ。

 

そして、次はまた独特なエリアに。1階に自由に使えるスペースがついていて、ここで習い事教室や小売店などの小商いを営むこうとが想定された棟。正直に言って、お世辞にも小商いが賑わっているとはいえず、使われていないスペースのほうが多かったものの、それでもポツポツ稼働している気配が。

 

そんなこんなで団地エリアも終わり、次の目的地である、開発前の原風景が残るエリアへと向かう。途中、太陽の塔のデジタル版のような建物も。

 

そうして団地エリアから歩くこと10分も経たず、一気に山間部にたどり着く。新選組が通ったとも言われる切り通しから、険しい山道まで、まるで奥多摩にでも来たような気分。目と鼻と先に、あの整備されたニュータウン空間が広がっていることが信じられない。開発エリアと山間エリアのこの急激な落差こそ、ニュータウンの面白さなのかもしれない。

 

山間部を30分ほど歩いて抜けると、小野路というもともと宿場だったというエリアに。一気に、地方都市感が増す。いまにも道の駅が登場しそうな風景。ニュータウンはどこへやら。ハイキング目当ての観光客の姿もちらほらと。

 

そしてさらに歩くと、今日のゴール地点である、谷戸へ。三浦の小網代の森を思い出す。ニュータウンエリアから徒歩30分ほどで、こんな景色に出会えるとは思ってもいなかった。完全に、里山。でもたしかに、実家近くの町田エリアは、意外にこういう里山風景がたくさん連なっているのを思い出す。東京の西側から川崎にかけて共通する原風景なのかもしれない。

 

……というわけで、約3〜4時間にわたる多摩ニュータウン行脚は終わり。15000歩ほど歩いてさすがに疲れたので、帰りは多摩センター駅までバスで帰った。

 

書き忘れていた、かつ写真も撮り忘れていたのだけれど、途中で昼食をとった団地内の、おそらく開発当初からあるであろう、家族経営の老舗町中華がとてもよかった。安くておいしいのはもちろん、本当に文字通り「肩肘張らない」雰囲気で、小商い店舗が地域コミュニティ形成において果たす役割の大きさがひしひしと伝わってくる。

 

多摩ニュータウンを歩いてみた感想としては、なんとなくだけれど、地元の新百合ヶ丘付近というよりは、地元の隣町である鶴川・町田エリアとの連続性をより強く感じた。めちゃくちゃローカルな話をすると、こどもの国あたりの里山風景とかなり近いものを感じる。実際、距離的にも近いとは思うが。

 

こういう、なんというか“東京の田舎”というものは、よく語られる二項対立的な「都心vs地方」の図式ではこぼれ落ちてしまう論点だけれども、これからいっそう東京一極集中が進む機運のあるいま、あらためて目を向けることには意味があるのではないかと感じる。

多摩ニュータウンは、もちろん“平坦なニュータウン”のひとつの極例であることは間違いないだろうが、その見方だけだとかなり表面的であり、その深層にある“東京の田舎”もあわせて考えると、より深みが増す。

 

というか当たり前だが、あらゆるニュータウンには、開発前には“田舎”的風景が広がっていたはずであり、その残滓はどうしたって残ってしまう。冒頭でも触れた『ニュータウンの社会史』では、「古層」と「新層」から成るニュータウンの歴史における「断絶」と「継承」の併存について触れられていたが、多摩ニュータウンを歩いて感じた、ニュータウン地域から里山地域への劇的な落差は、その両義性を否応なしに感じさせられるものだった。