Masaki Koike's blog

編集などを生業としています。モヤモヤの吐き出し、触れたものやつくったものの所感の備忘録など。

岡潔と「救い」の感覚

先週末、今年頭からずっとつくっていた論集書籍がようやく校了。自分としても、書籍編集をしっかり校了までやり切ったのは初であり、なかなかに大変ではあったが、ひとまずやり切った。情報はもうすぐ出せるはず。そして今日はその余韻冷めやらぬ中、少し寝かせていた別の書籍の編集を再開。とはいえこちらは単著で、論集とはまた違う難しさや大変さ、そして面白さがある。

 

そんなこんなで、最近はウェブ/紙問わず編集の仕事や、もう少しPMやデザインリサーチ寄りの仕事でほぼ95パーセントという感じの状況になり、書く仕事をほとんどしなくなっている。そして来年も基本的にはその方向性になるだろう。このポートフォリオ編成自体は、自分がある程度望んで寄せたものなので不満はまったくないし、むしろ楽しくてやりがいのあるプロジェクトばかりでありがたいのだが、最近は逆に、書くことや、その前段階の勉強に対する欲望がふつふつと高まっているのもまた事実。というわけで、このブログをその発散の場としてうまく使って、書き物以前のメモ書きのように、直近で考えたことをプロトタイプする習慣をつくりたいなと思っている。とはいえあくまでもプロトタイプなので、正確性やクオリティは担保しない。

 

というわけで、今日は唐突に岡潔のこと。

 

最近、気の合う友人の薦めもあり、岡潔を読んでみている。岡潔といえば日本を代表する数学者の一人で、近年は独立研究者の森田真生が岡の思想に立脚した議論や書き物を展開していることで、人文クラスタでも一定の存在感がある。僕もけっこう前田が『数学する身体』をとても楽しく読み、数学という一見すると最も抽象的であり無機質に思えるものを極めた岡が、結局は情緒性というテーマにたどり着いたことに新鮮な驚きを感じた記憶がある。そして、その森田が編者を務め、岡の晩年の書き物を集めた『数学する人生』を読んでみた。

 

そもそも僕のもっとも大切にしてる探究テーマというか、人生において大切な主題のひとつに、何かを学んで世界が広がったときに得られる、それ自体に救われたような感覚、がある。言いかえれば、学習や勉強のケア的側面、ともいえるかもしれない『数学する人生』を読み、そのテーマに対する示唆が、岡の思想には多分に含まれていると感じた。


まず、岡が展開する「社会」「自然界」「法界」の三界による存在論(くり返すが、これはあくまでもプロトタイプ、ラフスケッチなので、読者のことを考えて丁寧に説明することはしない。気になった人はぜひ調べてみてもらえると嬉しい)。岡は人間の「社会」、そしてそれを包含する「自然界」をも包含するものとして、時間と空間の中の事物にとどまらず、心に浮かぶすべてのものを包含する存在の領野としての「法界」を挙げる。この「法界」が、学習や勉強がもたらす「救い」の感覚の、ひとつの要因なのではないかと感じた。つまり、学習や勉強のケア的側面、たとえば人文書を読んで世界の見方が変わったときに感じる「なんだか救われたような感覚」は、この「法界」が広がって、「社会」が相対化したときに生まれるのではないか。そして多くの人が直感的にわかるであろうように、「自然」に触れると「社会」の軛から逃れられるのも、同様の理由はないか。

 

そして、岡の思想でもう一つ重要なキーワードが「懐かしさ」である。それはこの言葉から一般的に想起される、いわゆる過去への憧憬ではなく、周囲と通い合う心の実感だ。その全体と個体の連環を感じたときに生まれるこの感覚も、「法界」に触れたときの感覚と近いのではないだろうか。

 

「時間と空間の中の事物にとどまらず、心に浮かぶすべてのものを包含する存在の領野」「その全体と個体の連環を感じたときに生まれる『懐かしさ』の感覚」なんていうと、ちょっとスピリチュアルできな臭い匂いが漂ってくるが、でもそういう非合理的な表現でしかしっくりこない感覚が、たしかに存在しているというのもまた事実だと思う。

 

 

 

関係ないけど、真冬に暖房をガンガンに効かせた中で飲む缶ビールって、信じられないくらいおいしいですよね。真夏のクーラーの効いた部屋で食べるキムチ鍋がたまらないのと同じように。