Masaki Koike's blog

編集などを生業としています。モヤモヤの吐き出し、触れたものやつくったものの所感の備忘録など。

「生活思想」という枠組みで考えることのむずかしさ

先週まで、わりと外出の予定が続いていたのだが、昨日今日は久しぶりにオンラインの予定のみのウィークデー。最近忙しさにかまけてご無沙汰だったランニングも再開した。朝から晩まで狂ったように作業やテレカン、そして少し勉強をして、上がるタイミングで5キロほど走り、帰宅後即入浴。あがってすぐビール、夕食。シンプルでお金もほとんどかからないが、結局こういう日が幸せ。自分は基本的に朝に走る派なのだけれど、冬場は流石に早朝は寒いので、夜に走りがち。朝ランは日光を浴びながら目も覚め、かつ朝イチで「今日一日、勝った」感が出るので好きだが、夜ランは夜ランで「ラン→入浴→ビール」の勝利の方程式が組めるよさがある。あとなんというか、秋〜冬の夜ランならではの情緒、切なさのようなものがあるような気もする。

 

 

さて、今日は「生活」と「思想」について。

 

ここ数年、自分は工芸や民藝、あるいは家庭料理や園芸などへの関心を人生で初めて高めているのだが、それはつまるところ、個々のトピックにマニア的に関心があるというより、生活にまつわる思想への関心から来ている。このしんどい世界を生き延びるための思想に、思想史・思想研究的な観点から関心を持っている。もっといえば、現象学プラグマティズムに初めて内発的な関心が湧いてきたのも、同様の理由からだ。いわば「生活思想」への関心が軸にある、ともいえよう。

 

しかし、興味の赴くままにここ数年いろいろと読み散らかした結果、「生活思想」という枠組みでものを考えたり、思想史を整理することのむずかしさもよくわかってきた。

 

「政治思想」「経済思想」「経営思想」「教育思想」など、連字符思想ともいうべき領域は数多あるが、なぜか最も身近な「生活思想」というジャンルが存在しない。それはなぜか。


ひとつは、そもそも西洋史において生活は「オイコノミア」として取るに足らない「私的領域」とみなされてきた時期が長い、という点があるだろう。そして、政策で制度的にアプローチできる経済や政治、教育とは異なり、政治家や思想家がトップダウンに生活に号令をかけることの難しさもあり得るかもしれない。


逆にいえば、生活にまつわる思想は、基本的には市場や個人によってボトムアップに勃興してきたともいえる。だからこそ、系統だった思想史を紡ぐことがとても難しい。

 

その数少ない事例といえば、たとえば家庭料理の思想史や、釣りやアウトドアをめぐる思想史などは成り立つ気はするが、それでも「政治思想」や「経済思想」に比べると、ニッチな領域に閉じている感は否めない。

 

ここで壁にぶつかってしまい、探究のモチベーションが緩やかに下がっていたのがここ半年ほど、ともいえるかもしれない。ここからどうアプローチしていこうか。