ここ数ヶ月、本当に立て込み続けていて、ブログなんて書く余裕がなかったのだけど、昨夜久しぶりに銭湯に行き、少し気力が戻ってきたので、息抜きもかねて雑文を書いてみる。
4月21日に発売された、カネコアヤノの新アルバム『よすが』について。
最近、今さらながらカネコアヤノの曲をよく聴いている。いや、どハマリしている。日頃から音楽は人並みに聴くほうだとは思うけれど、一人のアーティストに心酔し、暇さえあればその人とその作品のことを考えてしまう経験は久しぶりだ。
正直に言えば、もともと「カネコアヤノとか好きそうな人」はどちらかといえば苦手だった。こういう偏見を持ってしまうのは、中高の男子校時代に根本的にひねくれた精神が身についてしまった自分の悪い癖であることはわかっているが、もうそういう性格なのだから仕方ない。
もっと言うと、「カルチャー」みたいな言葉もあんまり好きじゃなくて、大好きなドラマ脚本家の一人である坂元裕二さんによる映画『花束みたいな恋をした』に対する“カルチャー好き”の人たちからの反応にいまいち乗り切れなかったのも、このしょうもないひねくれ意識が根底にある。
でも、本当に何か創造物に打たれてしまうときは、そんなくだらない自意識なんかは一瞬で吹き飛ぶ。カネコアヤノには、『よすが』に収録されている「閃きは彼方」の歌詞の言葉を借りれば「雷光のように」打たれてしまった。彼女の言葉に宿る感性、描き出す世界観、ライブパフォーマンス、すべてに魅せられてしまっている。
なぜカネコアヤノに惹かれるのかは、まだまだ言語化しきれる気がしないので、ここでは深入りしない。ただ、最近かなり関心のあるテーマで、関連する企画をいくつも走らせている「生活」についての思想・実践について考えるうえで、大きな刺激を与えてくれている……が、明らかにそれだけではない。ほぼ同い年で、おそらく近しい街で中高時代を過ごしていることも、なにか関係している気もする。これについては考え続けていかねば、と思う。
今回書きたかったのは、新アルバム発売にかこつけて出たインタビューで語られていた言葉について。
新アルバム『よすが』のリリースは4/14、10日あまりが経つが、正直にいえば最初に聴いたときは、よくわからなかった。アップテンポなライブ映えしそうなナンバーは影を潜め、歌詞もかなり抽象度が上がっており、言ってしまえば喉越しがよくない。
それでも「何かあるはずだ」と信じ、聴き続けるなかで、ようやくその味が見えてきた気がする。ということで、ようやく『よすが』にかかわるインタビューを読んでみたのだが、「よくわからなかった」感覚は当たり前だったのだ、と気付かされた内容だった。
(以下、引用)
北沢:もっとキャッチーな曲でいこう、とか言われそうじゃない?
カネコ:言われそう。でも、それって消費じゃないですか。だからそういうのはシカトで、と思って。
カネコアヤノ“閃きは彼方”を聴く(Apple Musicはこちら / Spotifyはこちら)
北沢:本当に今って消費のスピード早いよね。曲作りにもアルゴリズムみたいな考え方が入ってきてると思う。AIが作ったような「いい曲」ってこれからすごく増えてくるんじゃないかな。
カネコ:音楽がないと死んじゃうから作ってるって人よりも、こういう言葉を使えば人ってグッとくるんでしょ? みたいな曲が最近は多いなってすごく思ってて。
北沢:同感です。
カネコ:本当にこれ聴いて励まされるのかな? とか、そもそも救われるために音楽を聴いてる人が減ってるのかな? って思ったり。いろんな聴き方があって当然だけど、テンション上げるために音楽を聴いている人のほうが多いのかなって。
北沢:サプリっぽい感じというか。結果的に“閃きは彼方”は音楽リスナーに対する問いかけになってるところもあるよね。世の中にはいろんないい曲があるけど、こういう感じの曲もよくない? みたいなさ。
カネコ:そうそう。とにかく自分っていうものをどれだけ強く保てるかが大事だと思う。
北沢:“爛漫”の歌詞で<わかってたまるか>って繰り返すじゃない? こういうところがカネコさんの最高なところでさ。
カネコ:嬉しい。
北沢:僕もいろんな場面で思う。お前らにわかってたまるか、って(笑)。
カネコ:「わかってたまるか」ってみんな思ってたほうがいいですよ。それが自分を曲げないお守りの言葉でもあるんで。
(引用おわり)
これは本当に、音楽だけに限らず、さまざまなジャンルで起こっている問題だと思う。そういえば、サブスク時代になって、イントロなしでいきなりサビに入る、わかりやすい曲が増えた、という議論もあった。
安易なAI批判とか、「最近の若いもんは……」論は嫌いだけれど、彼女が語る「音楽がないと死んじゃうから作ってるって人よりも、こういう言葉を使えば人ってグッとくるんでしょ? みたいな曲が最近は多いなってすごく思ってて」という言葉は、たとえば自分が仕事をしているウェブメディアや出版の世界についてもいえる、否定しがたい内容だろう。
喉越しが良すぎないコンテンツを作る、ということは自分もずっと心がけているし、最近色々とお手伝いしているPLANETSの編集長・宇野常寛さんが『遅いインターネット』で論じた問題とも大きくかかわっている。
以前、ブログに書いてそれなりに反響をいただけた、百田尚樹現象や文春砲に見られる「ユーザー目線」「ストーリーテリング」の行き過ぎという問題とも通底しているだろう。
少し話がそれた。カネコアヤノが言っていることは、クリエイションというものにまつわる言説としては、当たり前のことだと思う。でも、その当たり前のことを明言しなければいけないあたりに、現代の抱える閉塞感がある。
だからこそ、ちょっと聴いただけではよくわからない、でも聴き続けているうちになにかが伝わってくる、「わかってたまるか」という熱のこもった作品を作り続けている、彼女のような仕事には敬意を称したい。し、自分もそんな仕事をしたいな、と思わされる。
もちろん、これを「論理を明快にする努力を怠って良いのだ」という免罪符に使ってはいけないだろう。あえてわかりにくさを残すことと、わかりにくさに向き合わないことは、全然別の話だ。また、わかりやすいコンテンツが必要なときもたくさんあるし、それを全否定するのも違う。すべてはグラデーションである。
というわけで、仕事に戻ります。やっぱりモヤモヤっと思っていることを、一度文章にまとめるのはスッキリする。忙しいときほど、駄文を吐き出していくぞ……。